こんにちは
のはやさいです。
今回は、インディアンオーク号と渡具知についての記述について深堀りしていきたいと思います。
渡具知港とインディアンオーク号
前回紹介した記事に、現在にもある比謝川の河口に「渡具知港」があり、様々な歴史に関わりがあることを紹介しました。そのなかでも、異国とのちょっとしたつながりがあった事件「インディアンオーク号座礁事件」と読谷村渡具知とのつながりを文献と一緒に紹介していきたいと思います。
インディアンオーク号座礁事件
まずインディアンオーク号の座礁について紹介していきたいと思います。
時代背景から言うと、当時はイギリスなどのヨーロッパ諸国が、アジアに進出をはじめ、アヘン貿易を巡って、侵略戦争をおこなった「アヘン戦争」が起きた時期と重なり、清(現在の中国)とイギリスがバチバチ対立していた時期になります。
そんななか、そのイギリス船(インディアンオーク号)が台風で、遭難し、北谷沖で座礁することがおきてしまいました。
当時、琉球も清と国交を結んでいたが、当時の琉球王国の人々は船員を救助し、滞在中も厚くもてなし保護し、新しく船を作って見送ったという話である。
ちなみに、現在の北谷町アラハビーチにある座礁船の遊具はインディアンオーク号をモチーフにしているとのことです。
インディアンオーク号と渡具知
そんな事件にこの読谷村渡具知も大きく関わっていました。
文献と一緒に見てみると、北谷町史にインディアンオーク号の乗組員が残した琉球滞在時期の記録の原文がのこっています。
最初そのなかで、渡具知が出てくる部分を抜粋すると、
8h.received an invitation from the principal man Tung-chung-faw, Accompany him to the place where the junk was building to convey us to Singapore.
Accompanied my friend, taking with me Mr.Field, the chief officer,(略)
北谷町史 第2巻 資料編 近代文献 p391
訳としては「8時、頭の東順法からジャンク船が建造されている場所へ動向しないかと誘いを受けた。一等航海士のフィールドさんを連れて同行した」とあり、座礁した船の代わりの船を建造する場所へ琉球人から誘いを受けてそれに動向しています。
Had a good view of the Markerima and Kirema Islands.(略)crossed a bridge built of stone, with three arches, and about twenty feet broad over a considerable river, on the banks of which the junk was building.
北谷町史 第2巻 資料編 近代文献 p391
「慶良間諸島の素晴らしい眺めがあった。(略)大きな川に架かる、3つのアーチがある石橋を渡った。その岸辺でジャンク船は建造されていた。」とあり、ここで言う、大きな川は「比謝川」を指し、「3つのアーチがある石橋」は比謝橋をさしています。
とのことで、建造中の船を見に一度、比謝橋を渡って、渡具知まで来ている事がわかる文章でした。
しかし、まだこの時点で渡具知の名前は出ておらず信憑性に掛けます。そこで、後日の記録を読んでいくと、
Ascertained the name of the river where the junk was built to be Too-Koo-Chie.
北谷町史 第2巻 資料編 近代文献 p409
「船が建造されていた川の名前は「トゥークゥーチィ」であることを突き止めた。」とある。
発音上、トゥークゥーチィとなっているが、船が建造されていたのは渡具知だとわかる。
前回の記事で、渡具知港は進貢船などの造船を行っていたということを紹介したが、座礁したイギリス船の代わりの船を建造していたことがわかり、また、思うには、琉球国の大きな問題に対して、渡具知港の造船所が選ばれると考えると、琉球王国時代、国が認めるだけの技術を持っている港なのかもと推測される。※本記録には、ヨーロッパの造船技術よりは雑だったとの記載はあります
そんななかで、
Grainger with the remaining passenger and crew joined the junk, named the Loo-choo.
北谷町史 第2巻 資料編 近代文献 p413
「グレンジャーと残りの乗客乗員と一緒に、琉球丸と名付けられた船に加わった。」とあり、読谷村渡具知で作られた船の名前は琉球丸(Loo-choo.)と名付けられたとのことでした。
そして、後日慶良間方向へ出向し、粟国、久米島を見ながら帰路についたそうです。
まとめ
とのことで、インディアンオーク号は遭難し、帰りの替わりの船は、読谷村渡具知で作られたことがわかります。また、その船の名前は琉球丸と名付けられたとのことで、当時の乗組員たちの琉球愛が感じられます。
ちなみにこの滞在記には琉球人の心が見え隠れするところもあります。
「琉球滞在にかかった費用の支払いは一切受け取らない。彼ら琉球のどの船であれ、イギリスを訪れたり、同じ遭難にあったときは、手厚く処遇して、国に返してもらえれば良い」と琉球の人は言ったと記録に残っています。
素晴らしき「守礼の国」琉球ですね。
それでは今日はこのへんで
‐のはやさい‐