【読谷村・渡具知】イギリス船インディアンオーク号と琉球王国の知られざる交流|「琉球丸」の誕生秘話
こんにちは、のはやさいです🌱
今回は、19世紀の沖縄で実際に起こった国際的な出来事をご紹介します。
それは、イギリスの商船「インディアンオーク号」が沖縄近海で座礁し、琉球王国の人々が乗組員を救助。
さらに、読谷村・渡具知で新しい船を建造し、彼らを送り出したという歴史です。
📝 この記事でわかること
✅ インディアンオーク号座礁事件の詳細と時代背景
✅ 読谷村・渡具知の港が果たした役割
✅ 琉球王国のもてなし精神と国際交流
沖縄の歴史の中で、異国の人々と深く関わった渡具知の港。
その舞台裏を詳しく見ていきましょう!
⛵ 1840年、インディアンオーク号の座礁事件とは?
📌 19世紀、アヘン戦争とイギリスのアジア進出
1840年といえば、中国(清)とイギリスの間でアヘン戦争(1840~1842年)が勃発した時期です。
この時代、イギリスはアジア貿易を拡大しており、
香港や東南アジア、インド洋を巡る商船が行き交っていました。
その最中、イギリスの商船「インディアンオーク号」が、
台風による嵐に巻き込まれ、沖縄本島の北谷沖で座礁してしまいます。
📝豆知識:現在、北谷町の「アラハビーチ」にある船の遊具は、このインディアンオーク号がモチーフになっています!
沖縄の海は美しいですが、当時の航海技術では予測が難しく、台風で座礁する船が多かったのです。
⚓ 座礁したイギリス人たちを琉球王国が救助
📌 琉球王国の対応:異国の乗組員を手厚くもてなす
遭難したイギリス人たちは、琉球王国の人々に助けられ、那覇へと移送されました。
しかし、船が大破していたため、帰る手段がなくなってしまいます。
そこで、琉球王国が取った行動は、
✅ 新しい船を造り、彼らを送り出すこと
驚くべきことに、琉球王国はイギリス人たちのために、
新たな船を読谷村・渡具知で建造したのです!
この事実は、当時のイギリス人が残した記録によって確認されています。
📜 インディアンオーク号と読谷村・渡具知のつながり
📌 記録に残る「渡具知」での造船
インディアンオーク号の乗組員たちが残した記録には、
船の建造が「渡具知(トゥークゥーチィ)」で行われたことが明確に記されています。
📖 「北谷町史」に記録された証言
「大きな川に架かる、3つのアーチがある石橋を渡った。その岸辺でジャンク船が建造されていた。」
📖 参考文献:「北谷町史 第2巻 資料編 近代文献」p.391
この「大きな川」は現在の比謝川(ひじゃがわ)、
「3つのアーチがある石橋」は比謝橋を指しています。
つまり、イギリス人たちは比謝橋を渡って、
読谷村・渡具知の港へ向かい、造船が行われている現場を視察したのです。
🛠 渡具知で建造された船の名前は「琉球丸」
琉球王国は、イギリス人たちの帰国のために新しい船を造り、
それに「琉球丸(Loo-choo)」という名前を付けました。
📖 文献に残る「琉球丸」の記録
「グレンジャーと残りの乗客乗員と一緒に、琉球丸と名付けられた船に加わった。」
📖 参考文献:「北谷町史 第2巻 資料編 近代文献」p.413
この琉球丸に乗り込んだイギリス人たちは、
渡具知港から船出し、慶良間諸島を経てシンガポールへ向かったと記録されています。
💡 琉球王国の「守礼の国」精神
琉球王国の対応は、単なる人道的な救助ではありませんでした。
それは、「守礼の国」としての誇りを持った行動でした。
📜 琉球人の誇りある対応
「琉球滞在にかかった費用の支払いは一切受け取らない。」
「琉球のどの船であれ、イギリスを訪れたり、同じ遭難にあったときは、手厚く処遇して、国に返してもらえれば良い。」
この言葉が示すのは、「見返りを求めない琉球の精神」。
琉球王国は、中国(清)との外交を重視していましたが、
異国の船員たちにも同じように親切に接したのです。
これは、琉球王国が国際社会の中で、
どのような姿勢を持っていたかを物語る貴重なエピソードです。
📝 まとめ|インディアンオーク号と渡具知の関係
✅ 1840年、イギリス船インディアンオーク号が北谷沖で座礁
✅ 読谷村・渡具知で新しい船「琉球丸」が建造された
✅ 琉球王国は「守礼の国」として、手厚くもてなした
✅ 渡具知港は、国際的な交流の舞台となった
現在、渡具知港の名残はほとんどありませんが、
この歴史を知ることで、何気ない風景が特別に感じられるかもしれません。