【読谷村・渡具知】琉球王国時代の港町の歴史を探る|交易・薩摩侵攻・造船の記録
こんにちは、のはやさいです🌱
私たちの畑がある沖縄県読谷村・渡具知(とぐち)。
この地域には、現在「渡具知ビーチ」として親しまれる海岸がありますが、実はかつて、ここは琉球王国時代から栄えた港町でした。
📌 この記事でわかること
✅ 渡具知港の起源と琉球王国時代の役割
✅ 薩摩侵攻時の上陸地点としての記録
✅ 交易・造船の拠点としての重要性
それでは、文献をもとに詳しく見ていきましょう!
⚓ 渡具知港とは?琉球王国時代から存在した天然の良港
📍 渡具知港の立地と役割
現在の読谷村渡具知には「比謝川(ひじゃがわ)」という大きな河口があります。
この比謝川が、かつての**「渡具知港」**として機能していました。
✅ 天然の入り江で、潮待ちの港として利用
✅ 比謝川を利用した交易・物資の輸送が行われていた
✅ 琉球王国と中国・東南アジアを結ぶ交易の拠点だった
つまり、「渡具知港」は、ただの漁港ではなく、
琉球王国の国際貿易を支える重要な港だったのです!
⚔️ 1609年|薩摩侵攻と渡具知港の関係
「喜安日記」に記された渡具知港
「喜安日記」は、1609年の薩摩藩による琉球侵攻を、琉球側の視点で記録した歴史書です。
この中に、渡具知に関する重要な記述が見られます。
「同廿五日の早天に運天の港を諸軍勢の船と同く出て、酉の時、大湾渡口に漂着。兵船はともづなをとる。」
📖 参考文献:「読谷村史 第3巻 資料編2」p.220-221
この「大湾渡口」とは、現在の読谷村渡具知の港のことを指していると考えられています。
🔎 なぜ薩摩軍は渡具知港を使ったのか?
✅ 比謝川の河口は、船の出入りがしやすい天然の港だった
✅ 海からすぐ陸に上がれる地形で、戦略的に有利だった
✅ 読谷村は首里城へのアクセスが良く、進軍に適していた
薩摩軍はここに上陸し、浦添城を攻撃した後、琉球王国の首都・首里城へ向かいました。
つまり、渡具知港は沖縄の歴史の中でも大きな転換点となる**「戦の港」**だったのです。
📚 18世紀には「渡具知港」として公式記録に登場
1713年に編纂された「琉球国由来記」をもとに、1731年に改訂された「琉球国旧記」には、次のような記述があります。
「渡具知港(在比謝橋後)」
📖 参考文献:「読谷村史 第3巻 資料編2」p.142
この記述から、18世紀にはすでに「渡具知港」という名前が使われており、
✅ 比謝川河口に正式な港が存在していた
✅ 琉球王国の交易・物資輸送の拠点だった
ことが明らかになっています。
⛵ 渡具知港と造船|琉球王国の貿易を支えた港
琉球王国時代、渡具知港では「進貢船(しんこうせん)」と呼ばれる船が建造されていました。
「呉性家譜」による記録
「康熙四年乙巳八月於大湾唐船作事之時為奉公與金氏安室親雲上安時倶焉」
📖 参考文献:「読谷村史 第3巻 資料編2」p.268
この記述によると、17世紀には渡具知港で唐船(進貢船)の建造が行われていたことが確認できます。
✅ 進貢船は、琉球王国が中国へ貢ぎ物を運ぶための重要な船
✅ 当時、進貢船を造る技術を持つ港は限られていた
✅ 渡具知港は、造船技術のある職人が集まる場所だった
つまり、渡具知港は琉球王国の外交・貿易を支える港町でもあったのです。
🌊 19世紀には外国船の修理も!インディアン・オーク号の記録
1840年、イギリスの商船「インディアン・オーク号」が沖縄近海で座礁し、
渡具知港で修理を受けたという記録が残っています。
📖 参考文献:「嘉手納町史 資料編3 文献資料」p.260-262
✅ 琉球王国時代、渡具知港は外国船の修理拠点としても機能していた
✅ 船の修理ができるほどの技術と設備が整っていた
この記録からも、渡具知港がただの港ではなく、造船や船舶修理の中心地だったことがわかります。
📝 まとめ|渡具知港は沖縄の歴史の交差点
✅ 16世紀以前から港として利用され、薩摩侵攻の上陸地点だった
✅ 18世紀には「渡具知港」として正式に記録された
✅ 琉球王国の外交・貿易を支える造船拠点だった
✅ 19世紀には外国船の修理も行われるほどの港町だった
現在、渡具知港の名残はあまり残っていませんが、
「渡具知ビーチ」として、美しいサンセットが楽しめるスポットになっています🌅