【読谷村・渡具知】戦に翻弄された歴史|薩摩侵攻と沖縄戦の上陸地を辿る

こんにちは、のはやさいです🌱

今回のテーマは、私たちの畑がある沖縄県読谷村・渡具知(とぐち)の歴史。
特に、戦の上陸地点としての役割について深掘りしていきます。

渡具知は、かつて琉球王国の重要な港町として栄えましたが、
その一方で、戦の舞台となり、歴史に翻弄された地でもありました

薩摩の琉球侵攻(1609年)|薩摩軍がなぜ渡具知に上陸したのか?
沖縄戦(1945年)|米軍が上陸した「イエロービーチ」とは?
二度も戦に巻き込まれた渡具知の住民たちの悲劇

この記事では、これらの歴史を文献とともに詳しく解説していきます。


⚔️ 1609年|薩摩の琉球侵攻と渡具知の関係

📌 琉球侵攻の背景

江戸時代初期の1609年、薩摩藩(現在の鹿児島県)が琉球に侵攻しました。
この侵攻のきっかけとなったのが、仙台藩(現在の福島県)領内に琉球船が漂着した事件です。

薩摩藩は、琉球に対して徳川家康への謝恩使(感謝の使者)を送るよう要求しましたが、
琉球側がこれを拒否したことで、戦が始まりました。

📌 薩摩軍の進行ルート

薩摩軍は、総勢3000人、船100隻余りという大規模な軍勢で、琉球へ侵攻しました。
沖縄本島へ到着するまでの経路は以下の通りです。

  1. 鹿児島を出発
  2. 奄美大島・徳之島・沖永良部島を制圧
  3. 沖縄本島の運天港(現・今帰仁村)に上陸、今帰仁城を焼き払う
  4. 読谷村・渡具知に上陸し、首里城を目指す

この流れを見ると、渡具知は首里へ進軍するための重要な戦略拠点だったことがわかります。

📖 文献に記された渡具知上陸の証拠

「卯月一日、未の刻斗、敵那覇の津に入る。大将は湾より陸地を被越、浦添の城并龍福寺を焼き払う」
📖 参考文献:「読谷村史 第3巻 資料編2」p.220-221

この「湾」は、現在の比謝矼(ひじゃばし)・渡具知地域を指していると考えられています。

📌 なぜ渡具知に上陸したのか?

薩摩軍は、最初に那覇港への上陸を計画していました。
しかし、琉球側が那覇港の入口に鉄の鎖を張り、砦(やらざ森城・三重城)から大砲を撃ったため
薩摩軍は直接の上陸を断念します。

そこで、防備の手薄な読谷村・渡具知を選び、上陸を成功させたのです。

📖 参考文献:「比嘉春潮全集 第2巻 歴史編」p.9

このことから、渡具知は地理的に上陸しやすい土地であり、
戦略的に重要な拠点だったことがわかります。


🪖 1945年|沖縄戦と渡具知「イエロービーチ」

📌 沖縄戦とは?

第二次世界大戦末期、1945年4月1日
アメリカ軍は沖縄本島に上陸しました。

この上陸作戦の主な拠点が、読谷村の渡具知海岸(比謝川河口)。
アメリカ軍はここを「イエロービーチ」と名付けました。

📖 文献に記された渡具知上陸の証拠

「昭和二十年(一九四五年)四月一日(略)イエロービーチと呼んだ渡具知(比謝川河口)を拠点地として、渡具知海岸・水釜海岸に押し寄せ、何の抵抗もなく米軍は無血上陸した。」
📖 参考文献:「字渡具知誌 戦争編」p.40

「敵の反撃はまったくなく、ウソのような静けさが天地を包んでいる。」
📖 参考文献:アーニー・パイル(アメリカ人ジャーナリスト)

沖縄戦で渡具知が上陸地点として選ばれた理由も、
1609年の薩摩侵攻と同様に、防備が手薄で上陸しやすかったからでした。


📌 薩摩とアメリカ、2つの戦の共通点とは?

薩摩侵攻(1609年)と沖縄戦(1945年)は、どちらも渡具知に上陸
どちらも琉球側の防備が手薄な場所を狙った
偶然にも、どちらも「4月1日」に上陸が行われた

まるで歴史が繰り返したかのように、
約330年の時を経て、同じ場所で同じ日に2つの戦争が起こったのです。

当時の渡具知の住民たちは、
まさに戦に翻弄され続けた地域であったことがわかります。


📝 まとめ|渡具知が持つ戦の記憶

1609年、薩摩軍が渡具知に上陸し、首里城へ進軍
1945年、米軍が「イエロービーチ」として無血上陸
戦略的な地理条件により、二度も上陸地点になった
戦の影響を受けた渡具知の住民たちの悲劇が記録されている

歴史を学ぶことで、渡具知という地が持つ「戦の記憶」を未来に伝えていきたいですね。