読谷村 渡具知の記録 「戦前」編

こんにちは
のはやさいです。

今日は私達の畑がある読谷村の渡具知集落の文献を探ってみました。

今回、この記事を書く目的としては、自分の住んでる。働いている地域に関する、事柄、歴史、文化に関する知識を付けたい・理解したいという意味で、作成しております。
また、読谷村渡具知という地域をより知ってもらえたらいいなという思いもあります。
※この記事は随時資料が見つかり次第追加していく予定です。

それでは渡具知集落が紹介されている文献を上げながらこの地域の紹介していきたいと思います。

まず渡具知の概要としまして、字誌によると、

絵図郷村帳(1649年)に渡口と記されており、古い集落である。比謝川河口を天然の良港として、昔から交流で栄えた。一方薩摩の上陸地点であり、また沖縄戦の米軍上陸拠点ともなった。戦後軍用地に接収され、(略)復帰後、軍用地が返還されると、土地改良事業と合わせて、復帰先地整備事業が実施され、(略)スイカ、メロン等、早くから集約型の農業が発展した。現在※1集落前面を通過する国道バイパス整備事業と、泊城公園整備事業が進められている。※1、1996年現在

出典:字渡具知誌「戦争編」 読谷村字渡具知 p377

と記されています。

また、村教育委員会発行のガイドマップにも

渡具知の沿革
かつてはワタイグチ部落とよばれ、「絵図郷村帳」では戸口村と当てていたが、現在では渡具知と表記するようになった。比謝川河口という天然の良港を有し、(略)集落の南端にある約7000年前(縄文時代)に遡る東原遺跡が示すように、悠久の時の流れを有している。(略)その他にも国の史跡に指定された約2200年前の箱式石棺墓郡が出土した木綿原遺跡等がある。

出典:渡具知ガイドマップ 読谷村教育委員会 文化振興課 2013

と記されており、古くは2200年前の縄文時代から、薩摩侵攻・沖縄戦の始まりの地としての歴史があり、土地改良事業による農業振興地域がひろがる農産業が盛んな風土豊かな集落と紹介されています。

2024年現在も、集落の多くは畑が占めており、畜産・野菜栽培が行われています。また、字誌には泊城公園整備事業が行われているともあり、泊城公園は現在では「渡具知ビーチ」とも親しまれており、サンセットスポットとして、観光の人気を博しています。

歴史

とのことで、この読谷村渡具知集落。集落の歴史を振り帰り、この地域がどのような経緯を歩んできたかを見ていきたいと思います。

戦前の渡具知集落
景観

戦前の渡具知集落はどのような景色が広がっていたかが垣間見える文章があります。

比謝川渓流に沿う入江は、両岸の松林が美しく、泊城の沿岸や砂浜の自然景観は昭和八年「南沖縄新八景」に指定された観光名所で、那覇の軽便鉄道の駅に写真が飾られていた。

出典:字渡具知誌「戦争編」 読谷村字渡具知 p5

昭和八年五月、那覇煙草小売人組合発起となり、同組合の管轄区域である首里、那覇両市、及島尻、中頭の二郡に亘り、勝地南沖縄八景決定のため十ヶ月に亘り愛煙家に托して投票募集を試みた。(略)こうして選ばれたのが、次の八景である。首里城古韻(首里市)、波上夕照(那覇市)、辻原清明(那覇市)、瀬長白沙(島尻郡)、与那原朝陽(島尻郡)、天願川長流(中頭郡)、普天間松籟(中頭郡)、比謝川渓流(中頭郡)」とある。

出典:琉球の八景について 高橋康夫 著 p30

と記されていることから、戦前の景観は沖縄屈指の美しさを誇るものだったと記録に残っています。

産業

当時の産業としては、

開けた農地にも恵まれた半農半漁の村であり、五箇所のサーターヤーでは現金収入となる黒砂糖の生産をしていた。(略)渡具知は漁業も盛んで漁業組合も字単独で運営していた。

出典:字渡具知誌「戦争編」 読谷村字渡具知 p6

と記されており、サトウキビを始めとする農業・字単体で漁業組合を持つ漁業ともに盛んという記録も残っています。

交通

また、陸海交通の要でもあり、以下のような記録があります。

半里離れていない嘉手納には、(略)那覇と、嘉手納を結ぶ軽便鉄道の終着駅があり、(略)

出典:字渡具知誌「戦争編」 読谷村字渡具知 p7

1922(大正11)年、県営鉄道の 嘉手納線が開通しました。嘉手納にある 精糖工場の製品輸送が目的の一つでした。(略)営業収入の八割は旅客収入で占めていました。

 【WEB】内閣府 沖縄総合事務局 北部国道事務所 「やんばるロードネット」 近代沖縄の道

陸には、鉄道が走っており、産業との物流と人の往来の拠点

海は、

渡具知港へ、時々、県内外から、牛、馬などを満載するポンポン船が入港した時であった。(略)農作業の途中でも作業を止め、港へと走っていき、陸揚げされる牛の手綱を引いて比謝矼の市場へ連れ込んだ。その運び賃を貰うことが、渡具知の人達の大きな楽しみであり、(後略)

出典:字渡具知誌「戦争編」 読谷村字渡具知 p8

とあり、比謝川には汽船(ポンポン船)の出入りがあったことがわかり、陸海共に交通の要所でもあった事がわかります。

先進技術

また当時の、渡具知には、情報通信の要である、海底電信が通っていたとの文献も見られます。

明治29年には、鹿児島と沖縄を結ぶ沖縄で始めての海底電信が陸揚げされた所である。それにより沖縄と県外は直接に電報を送受することができ、孤島苦を抱える沖縄に新しい通信文化をもたらした。渡具知の人々は、その家を電信屋といって慣れ親しんだ。

出典:字渡具知誌「戦争編」 読谷村字渡具知 p5

実はその2年前の明治27年、日清戦争が起こり、国土防衛上沖縄と本土を結ぶ電信の必要性が大きく浮かび上がっていたのです。翌28年、日清戦争が日本の勝利に終わり、台湾が清国から割譲(かつじょう)されると、すかさず明治30年には台湾線が敷設されています。
 海岸から伸びた3本の太いパイプの先からは、奄美大島・石垣・ヤップへの線が伸びており、付近は入漁禁止となっていました。
 そのような軍事用海底電信でしたが、県民の願いもあって後には軍事通信のかたわら、公衆通信でも利用できるようになりました。

【WEB】読谷村史編集室 戦跡マップ 電信屋の碑

(前略)これが沖縄における電信線の始まりである。去る第二次世界大戦で海底電信線は破壊された。(後略)

出典:字渡具知誌「戦争編」 読谷村字渡具知 p383

明治29年から約半世紀、沖縄の通信の要として、沖縄の文化や経済、政治の発展に貢献し、情報化時代の先駆けの地でもありました。

とのことで今日はここまで、
資料が見つかり次第ついかしていきます。

‐のはやさい‐