こんにちは、
のはやさいです。
今回は短編集です。新聞記事からわかる渡具知として、今回は2編に分けて行きたいと思います。
前回「戦前」編で読谷村渡具知には海底電信線が陸揚げされていたという事を紹介しました。色々と海底電信線について調べてみると、ちょっとした当時の風景がみることができましたので紹介したいと思います。
そしてもう一つ、渡具知村と古堅村のバチバチ訴訟闘争についても紹介したいと思います。
海底電信線と「電信屋」
明治40年1月5日の琉球新報を見ると、海底電信線についての紹介がありました。
そこからは、海底電信線を保管するための長屋が設けられていたということがわかります。
電信屋 読谷山渡具知 海底電信線を保管する為長さ五六間の長屋がある。その長屋を呼んで電信屋と云ふている(略)
読谷村誌 第二巻 資料編1 戦前新聞集 p191
その長屋の名前は「電信屋」と呼ばれていたそうです。その電信屋は、中学生の社会見学の場でもあったそうです。
そんな電信屋、色々見ていると、如何に重要な施設だったことがわかる文章がいくつか残っています。
というのも、電信屋がある海域は立入禁止だったみたいです。
明治35年の1月25日の記事では、北谷町の漁師が海底電信線路区域内において、漁をしたことにより罰金の刑が課せられている記事があります。
中頭郡北谷町間切野国村士族は(略)読谷山間切渡具知村港内通信省の指定地なる水底電信線路区域内に於いて釣竿を垂れ漁業をなしたる廉に依り電信法第四十条により罰金五円に処せられる
読谷村誌 第二巻 資料編1 戦前新聞集 p66-67
とあります。ちなみに5円は現在の価値として、約一万円の程の価値になります。
また、琉球新報明治31年4月17日の記事には、山原船が北部から木材を満載して、那覇港へ向かう時、どうも残波岬が難所なのか、渡具知近海で漂流して、渡具知港に漂着することになるが、海底電信線が敷いてあることにより、その番人に怒られるため、楚辺の海辺へ避難しなければならない
(前略)渡具知港に漂着する由なるが同処に海底電線設敷しあるに付き同処番人に叱責せらるる(後略)
読谷村誌 第二巻 資料編1 戦前新聞集 p19
ともあり、警備面にもとても厳しい立ち入りが難しい重要な区域だったことがわかります。
また、戦時前にも、海底電信局守備隊が配備されていたこともあり、沖縄の重要拠点だったのでしょう。
現在も電信屋があった海岸の渚の500坪の土地は、国有地となっている。
とのことで、電信屋の話しはこれまで。
村境を巡って古堅村とバチバチ訴訟
そんな渡具知、話変わって、古堅村と渡具知村のバチバチ訴訟闘争があったことも紹介したいと思います。
明治33年8月25日の琉球新報の記事にて、古堅村と渡具知村が、村境を争った記事が残されています。
その原因は、古堅村の農家の土地に、渡具知御嶽という所があったのだというのが始まりで、
古堅村の言い分としては、「古堅村の土地なる以上は、古堅村の所有に属する!」とあり、
渡具知村の言い分としては、「古来から、この御嶽は、渡具知御嶽と呼ばれ、松の木の植え付けや伐採を行っても誰も文句を言うものはいないからもちろん渡具知村の所有する土地だ!」という内容であります。
この裁判の動向は、
(前略)最初は、間切長に請願して落着を付けんとしたれども村と村とのことなかれば双方とも容易に服せず遂に訴訟を提起するにいたる(略)双方争いの末、那覇区裁判所に於ては古堅村の勝訴となりたるも、其の判決に服せず那覇地方裁判所へ控訴したる。
読谷村誌 第二巻 資料編1 戦前新聞集 p44-45
とあり、一度、古堅村が裁判に勝っています。
しかし、その判決に屈服せず、那覇地方裁判所に控訴しています。
その後、那覇地裁では司法の管轄外ということで、棄却になっているが、またまた、両村控訴をして、長崎で裁判を起こし、またまた、那覇地方裁判所で裁判を行うこととなり、最後は渡具知村の勝訴となっています。
(略)又、那覇地方裁判所に於て裁判することとなりたるが今回は渡具知村の勝訴となりたる
読谷村誌 第二巻 資料編1 戦前新聞集 p45
記事の最後には、
この事件起こりしより六七年を経過し居れば両村各々入費は二千円余に及び居るも訴訟の目的物たる山野の価格はわずか四十円位なりとぞ。
読谷村誌 第二巻 資料編1 戦前新聞集 p45
ちなみに、当時の二千円は、現在の価値として370万円にのぼり、四十円は7万円程であります。
とのことで、この争い泥沼化していたことがわかります。
現在の渡具知御嶽の場所は、読谷村渡具知内にあります。
ということで今回の小話はこれまで
今日はこのへんで
‐のはやさい‐