読谷村 渡具知の記録 「渡具知港」編

こんにちは
のはやさいです。

前回からとの引き続きで、今回も読谷村渡具知について調べてみたので、その文献などを含めて、その歴史を紹介していきたいと思います。

戦前の渡具知集落についての記事は以下になります。

琉球王国時代の渡具知港

今回は琉球王国時代に記された文献内の「渡具知港」について書いていきたいと思います。

渡具知港

琉球王国時代の文献にも「渡具知港」は出てきます。前回の戦前編の記事でも戦前には港があり、汽船等の入港があったり、漁業が盛んだったりと、栄えていたという文献を紹介したところです。

そんな渡具知港についての歴史を深堀りしていきたいと思います。

「喜安日記」による記載

喜安日記とは、島津の琉球侵攻について、琉球側の立場で書かれた資料で、1609年の薩摩侵攻から1611年に尚寧王が帰国するまでの2年半あまりの事について書かれた文献です。

そこにも、渡具知に関する記載があります。

同廿五日の早天に運天の港を諸軍勢の船と同く出て、酉の時、大湾渡口に漂着。兵船はともづなをとる。西来院同時出船して其夜の寅の刻斗に真比港に着ぬ。

読谷村史 第3巻 資料編2 p220-221

この引用文は、薩摩の琉球侵攻に対する和平交渉に行った、喜安の動向であり、喜安を乗せた薩摩軍の船は、運天港を出て夕方に、比謝川の河口を利用した港「大湾渡口」に到着していることがわかる文です。

この渡口とは、現在の字渡具知であり、大湾、または湾とは、現在の字比謝矼のことを指しています。

なぜ大湾・湾と呼ばれたかは、1914年字比謝矼が一行政区として独立分離するまでは、大湾の小字比嘉原であった由来があります。地元ではごく最近までは、「湾」と読んでおり、「大湾」は公称であったそうです。

また、当時の比謝川は一本の水路ではなく、渡具知港は湾港の※潮待ちの港であり、湾港がふくそうした時の補助港であった事も分かっています。※潮待ちの港:満ち潮と引き潮がぶつかる場所にあり、一度ここで立ち止まり潮の流れが変わるのを待つ港。

また、

卯月一日、未の刻斗、敵那覇の津に入る。大将は湾より陸地を被越、浦添の城并龍福寺を焼き払う

読谷村史 第3巻 資料編2 p220-221

とも喜安日記にはあり、渡具知港は、薩摩の琉球侵攻の上陸の地としての場所であり、そこから、浦添を攻撃して、首里に向かった記されています。

17世紀初頭、「渡具知港」とは呼ばれていないが、渡口という地名が出てきており、当時から港があったことがわかります。

「琉球国旧記」による記載

琉球国旧記とは、1731年に11月に首里王府の命によって、鄭秉哲が編集した地誌です。本書は、1713年に出された「琉球国由来記」をもとに改修したものとなります。

その琉球国旧記には以下のように渡具知港についての記載が確認されています。

渡具知港(在比謝橋後)
笠麗江(在渡具知邑。以上属読谷山郡)

読谷村史 第3巻 資料編2 p142

読谷村史の解説には、

渡具知港は、比謝橋の後方にあると記しているが、そこは大湾と古堅邑(村)の番地になり、河口に近い部分が渡具知邑なので渡具知東原遺跡付近を指しているのだろうか。

読谷村史 第3巻 資料編2 p142

と解説されています。

また、嘉手納町史による解説もみてみると、

渡具知港は比謝橋の後にあると記されているが、比謝川河口付近のことか。

嘉手納町史 資料編3 文献資料 p123

ともあり、18世紀始め頃には、すでに比謝川河口付近には渡具知港と呼ばれる港が存在していたとのことがわかります。

インディアンオーク号の記録による記載

また、1840年に東シナ海を航海中、台風の影響を受け北谷沖に座礁したイギリス船インディアン・オーク号の記録を見てみると、

インディアンオーク号の記録 (1840年8月)
(前略)、我々をシンガポールまで運ぶジャンクが建造されている場所へ、彼と同行しないかと誘いをうける。(略)、アーチが3つあり、かなり大きな川に架かっていて約20フィートの幅がある石造りの橋を渡る。その川の土手の上でジャンクが建造されていた。橋を渡った後で、我々の通った道は海の方向へと北岸の突端部分まで2マイル程のびていて、ジャンクが建造されている所についた。河口には小さい入江があり、中型のジャンクが3隻錨をおろしていた(後略)
‐照屋善彦訳、「北谷町史」第2巻、1986年‐

嘉手納町史 資料編3 文献資料 p260-262

とのことが記されています。

アーチが3つあり、かなり大きな川に架かっていて約20フィートの幅がある石造りの橋を渡る

このアーチが3つの橋は比謝橋を指しており、

「我々の通った道は海の方向へと北岸の突端部分まで2マイル程のびていて、ジャンクが建造されている所についた。

北側の突端部分というのが、今の泊城(渡具知ビーチ)付近のことを指していると思われ、そこで、ジャンク船(中国様式の船)の建造が行われていたことがわかります。

インディアンオーク号の渡具知で修理されていました。

インディアンオーク号についての詳しい記事はこちら↓

また造船に関しては、※家譜の資料をあたってみると、※近世期、士族が有した家系に関する記録

康熙四年乙巳八月於大湾唐船作事之時為奉公與金氏安室親雲上安時倶焉(呉性我那覇家々譜七世宗信の項)

読谷村史 第3巻 資料編2 p268

呉性七世宗信は大湾において唐船の建造修理事業があったその時に唐船作事奉行になった。との文献が残っており、17世紀中程には、大湾(比謝矼・渡具知)にて唐船(進貢船)などの造船が行われていたことがわかります。

まとめ

渡具知港は16世紀ごろから存在し薩摩の上陸地点であり、17世紀中程には唐船(進貢船など)の建造がおこなわれ、インディアンオーク号の座礁の際の修理の場であったことがわかりました。

琉球の歴史をたどると、渡具知港は沖縄の歴史のいろんな事に関わりをもっていることがわかる港だったと、文献から知ることができました。

それでは今日はこのへんで

‐のはやさい‐