読谷村 渡具知の記録 「侵攻と上陸の地」編

こんにちは
のはやさいです。

今回は、読谷村渡具知と、戦の侵攻と上陸の地としての事柄を深堀りしていきたいと思います。

渡具知港

読谷村渡具知は、前回紹介した「インディアンオーク号」編や「戦前」編でも琉球王国として、主要な港だとわかり、また、多くの歴史に関わってきたことがわかりました。

しかし、栄えていた話だけでもなく、戦に翻弄された場所でもあります。

とのことで、島津・薩摩の琉球侵攻と沖縄戦の上陸・読谷村渡具知について簡単に書いていきたいと思います。

薩摩の琉球侵攻

薩摩の琉球侵攻は、薩摩が琉球を攻めた事を言い、事の発端は、仙台藩(現在の福島県)の領地内に琉球船が漂着し、徳川家康の命で、琉球に送還されたことが始まりです。薩摩は、琉球に対して、謝恩使を家康へ送れと要求するが、琉球側はそれに応じなかった事が原因だと言われています。

薩摩の琉球進行のルート

そこで、薩摩の進行ルートをみてみると、

総大将樺山は、船100隻余り3000人の兵を引き連れ、鹿児島を出発し、大島を制圧。ついで、徳之島・沖永良部島を降伏させました。そして、沖縄本島の運天港(現今帰仁村)に到着し、今帰仁城を焼はらいました。それから、読谷村渡具知に行き、樺山らは上陸し、首里へ向かったとされています。

喜安日記にも

卯月一日、未の刻斗、敵那覇の津に入る。大将は湾より陸地を被越、浦添の城并龍福寺を焼き払う

読谷村史 第3巻 資料編2 p220-221

とあり、渡具知から上陸していることを記している文章もあります。(湾:現在の比謝矼・渡具知地域)

なぜ渡具知に上陸

そんな中、なぜ、読谷村渡具知に上陸した理由はなぜかと調べてみると、比嘉春潮全集 第2巻にその理由がまとめられていたので紹介します。

樺山は、七島(道之島)の船六、七艘で那覇港を偵察させると、港口に鉄鎖を張り、やらざ森城と三重城から石火矢を打ち返してきたので、上陸は困難をきわめた。そこで、海路を引き返して四月一日、防備の手薄な運天に上陸して、また、一隊は、防備のない読谷山の湾渡口から上陸、(後略)

比嘉春潮全集 第二巻 歴史編 p9

この文から、樺山らは、一度偵察を行っていることがわかり、琉球側の守備の有無を確かめていたことが考えられます。そこで、上陸地点と浮上したのが、琉球側の守備のない読谷山渡具知だと考えられる。

侵攻と伝承

また、現在にも渡具知地域には、

特に、比謝川河畔に住居を構える渡具知の民は、大和から戦が押し寄せてきたと大慌てし、速く避難するようにとの布言で、湾、伊良皆東の山奥へと避難した伝承である。

渡具知誌 戦争編 読谷村渡具知 p44

という戦に翻弄された伝承の記録が残っています。

また、嘉手納町の民話では、地域住民が坂の上からお粥を流して抵抗したとの民話もあるそうです。

沖縄戦

沖縄戦とは、第二次世界大戦末期、沖縄の地で県民を巻き込んだ、地上戦の事です。この、戦の沖縄への上陸地点も読谷村渡具知になります。

渡具知誌には、

昭和二十年(一九四五年)四月一日(略)イエロービーチと呼んだ渡具知(比謝川河口)を拠点地として渡具知海岸、水釜海岸に押し寄せ、何の抵抗もなく米軍は無血上陸した。

字渡具知誌 戦争編 読谷村渡具知 p40

 と記されており、沖縄戦の上陸地点でもあり無血上陸だったことがわかります。

アメリカ人ジャーナリストのアーニー・パイルの従軍記にも

敵の反撃はまったくなく、ウソのような静けさが天地を包んでいる

字渡具知誌 戦争編 読谷村渡具知 p40

と記しています。

薩摩とアメリカ

この2つの出来事を見比べてみても、似たりよったりな感じがします。同じ、戦の上陸地点になった読谷村渡具知琉球側の守備がない薩摩の進行と無血上陸だった沖縄戦。当時の渡具知住民はとても戦に翻弄されたのではないかと、考えてもわかります。

また、偶然のようで、薩摩の樺山上陸日は、卯月(4月)一日、それに対し、沖縄戦も4月1日上陸と、同じ日付の日に起きています。

まとめ

この流れをみてみると、似たような悲劇の歴史がくり返されていることがわかりました。当時の地域住民も戦に翻弄された事もわかります。

また、同じようなことをくり返さないことを願いたいたいですね

それでは今日はこの辺で、

‐のはやさい‐